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耳原古墳(みのはらこふん)

耳原古墳のイメージ01

古墳の所在地 大阪府茨木市耳原3-4
古墳の形状 円墳
規模 23m、高さ約8m
築造年代

古墳時代後期(6世紀後半)

副葬品 鉄刀、瓔珞円など
被葬者

この地域に勢力を有していた首長の一族(推定)

 

概要

耳原古墳のイメージ02

耳原古墳(みのはらこふん)は帝人大阪研究センターの敷地内にあり、受付で古墳見学と伝えると古墳見学の入場証を渡してくれた。その入場証に書かれてある場内の地図をたどり、しばらく歩いていくと樹木の生い茂った場所がある。
耳原古墳である。
耳原古墳は直径約23m、高さ約8mの円墳で築造年代は古墳時代後期(6世紀後半)とされている。
帝人大阪研究センターの敷地内にあるということで、墳丘の盛り土の状態は良好で、くっきりと円墳を確認できる。
耳原古墳のイメージ04この古墳は南向きの横穴式の石室を有しており、三島地方最大の巨石古墳とされている。
実際に石室に入ってみるとその石組の規模と内部の広さに驚かされた。
石室に使われている巨石は花崗岩(かこうがん)の自然石で組まれており、その規模は玄室の長さが約6.97m、幅約2.4m、高さ約3m。玄室内には形の異なる石棺が2基安置されており、これらの石棺は、凝灰岩でできており、石室の奥にある石棺は家形組合せ式石棺で長さ2.22m、幅約1.3m。蓋には前後・左右に6つの突起がついている。

耳原古墳のイメージ03入り口付近にある石棺は、家形刳抜式石棺。長さ2.09m、幅1.3mの大きさで、蓋の突起は前後に各1個の円形突起があり、奥の石棺のほうが見た目にも豪華な印象を受けた。

掲示板によるとこの2つの石棺は主従関係ということらしいが定かではないようである。

発見された当時、明治15年(1882年)は、この2つの石棺には朱が塗抹されていたようである。

副葬品などは金製環、ガラス玉などが発見されており、安威川、茨木川に挟まれたこの地域には鼻摺古墳将軍塚古墳(鎌足公古廟)将軍山古墳などと、ひとつの古墳群であったものと推定できる。

耳原古墳のイメージ05北摂山地の丘陵部に築かれたこれらの古墳群は将軍山古墳(前方後円墳 全長約107m 後円部径約70m 前方部端幅約44m 4世紀後半頃築造)の大型首長墓から小型の首長墓へと時代とともに転換していくことになるのだが、将軍山古墳築造から100年あまりこの地域において古墳の築造が途絶えている。
6世紀後半になって鼻摺古墳(方墳 直径33m 高さ5.5m )が築造されており、続いてこの耳原古墳が築造されることになる。
この古墳築造の空白期は西隣の福井丘陵部の古墳群でもおこっており、なにかしらの事情があったものと推定される。

耳原古墳のイメージ06石室の入り口から奥(玄室)に向かって石室の右側の壁面に数体の小型の石仏が並べられていたが、これらのが石仏がもともとここにあったものなのかどうかはわからなかった。

この古墳の被葬者については、詳しいことはなにひとつわかっていない。

 


 

周辺情報

鼻摺古墳

将軍山古墳
将軍塚古墳(鎌足公古廟)
安威古墳群

 

 

史跡指定

大阪府指定文化財

 


交通・アクセス


大きな地図で見る

阪急京都本線 茨木市駅下車

阪急バス 車作行 耳原下車 徒歩8分。

 

 

 


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