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阿武山古墳(あぶやまこふん)

阿武山古墳のイメージ01

古墳の所在地 大阪府高槻市大字奈佐原
古墳の形状 円墳
規模 82m
築造年代

古墳時代終末期(7世紀前半~後半)

副葬品 ガラス玉を編んで作った玉枕など
被葬者 藤原鎌足(推定)

 

概要

阿武山古墳(あぶやまこふん)は大阪府茨木市と高槻市の境界にある阿武山(標高281.1m)の山腹にあり、芥川と安威川との間に立つ丘陵であり 、大阪平野のほぼ全域を見渡すことのできる高地であり、この山の山腹部に墳墓を置くことはかなりの意味があったものと推定される。

阿武山古墳が山腹部にあることは先に述べたが、その見晴らしの良さは他の山腹部にある古墳よりも群を抜いており、三島平野は言うに及ばず大阪平野まで一望できる。

また貴重な古墳として、国史跡にも指定されている。

1500年もの長い間、誰にも盗窟されることもなく、遺骸や副葬品がそのままであったのはこの阿武山の山腹部に築いたお陰であるということは間違いないのではないだろうか。

阿武山古墳のイメージ02周濠と表記された場所は明らかに平らになっており、それ自体が古墳を取り囲むように廻らされている。
元来周濠とは墳墓である聖域と俗世界を仕切るために作られていると考えられるている。
今城塚古墳に見られるような周濠沿いに円筒埴輪を整然と並べ、さらにその考えを強調してあるものもある。

一種の結界のよう役割を担っていると考えられるているようだ。
周濠には水が張られているものとそうでないものがあるが山腹部にあるこの古墳には当然水は張られてはいなかったであろう。

阿武山古墳のイメージ03墳丘の頂上部に墓室と表記された場所があり、ここから石棺や副葬品が数多く出土した。

わりと高い木々が円形状に墓室を取り囲むように生えているが、これは最近植えられたものなのであろうか。

将軍塚古墳と同様この古墳は「貴人の墓」という別名でも知られ、被葬者は藤原鎌足という説が有力である。

発見のきっかけとなったのは京都大学の地震観測施設の建設において土を掘り下げていく過程で瓦や巨石に突き当たったことによる。

通常の円墳に見られるような小山の盛り土による墳丘部はなく、比較的浅い溝で円形の墓域を形成しており、この点についても他の古墳とは大きく異なる。

しかし周濠から墓室までの緩やかな斜面全体が墳丘だと考えると、かなりの規模の円墳だとわかる。

実際の大きさは直径が82mの円墳であるようだ。

阿武山古墳のイメージ04その墳墓のほぼ中央部から石棺が発見され、中には60歳前後の男性のミイラがほぼ完全なかたちで残っていた。

男性のミイラの肉や髪の毛、そして身にまとっていた服も残っており、さらにはガラス玉を編んで作った玉枕(写真下)や錦を身にまとっていたこと、胸から顔にかけて金の糸がたくさん散らばっていたようである。

これらの点を考えてみてもこの男性のミイラは最上位の身分の人物であったことは間違いないと推定されている。

X線写真の分析の結果、この男性のミイラは腰椎などを骨折する大怪我をしていること、その後合併症で死亡したこともわかっており、鎌足が落馬によって死亡したとされる説と一致する。

阿武山古墳のイメージ05また胸から顔面、頭にかけてたくさん散らばっていた金の糸が冠の刺繍糸だったことが解っており、この冠が当時の最高冠位であることなどから藤原鎌足ではないかと報道された。

先に紹介した将軍塚古墳も藤原鎌足の墳墓と言い伝えられるがどちらが藤原鎌足の墓なのだろうか。
鎌足以降藤原氏の権勢は続き、平安時代では最高の権力を欲しいままにした。
ともあれ継体天皇と同様に藤原鎌足が三島古墳群を有名にした要因であることは間違いない。

 

阿武山古墳のイメージ06

 

阿武山古墳のイメージ07阿武山古墳のイメージ08

 

阿武山古墳のイメージ09

 

左上より冠帽(複製品)・玉枕(複製品) 左下段 須恵器 蓋坏(ふたつき)(今城塚古代歴史館より)

 

 

近隣情報

京都大学 防災研究所 地震予知研究センター 

 


交通・アクセス


大きな地図で見る

JR東海道線(京都線)「摂津富田」駅下車。
高槻市営バス 日赤・公団阿武山行き 大阪薬大前下車。

 

 

 

 


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